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「文学方面」外の還元主義者たち

さて、では山形浩生と大塚英志にみる相違点と共通点は何か?

【相違点】
これは小説(文学)のオモシロさ、存在意義をどう捉えるか?という違いである。
アルゴリズムを自動化することによって作家性が希薄になり、最終的にそれは誰の「作品」になるのか?という議論を展開することで、小説(文学)そのものが掻き消えていく(もちろん、その代替物は存在するのだが・・・)と語る山形。
いっぽう、大塚は、ソフト(コンテンツ)産業が肥大化していく中で「ブルーカラーの物語作者」(他人の作った世界観をベースに二次創作できる人)を効率よく養成するために「物語の構造」を整理し、なおかつその先に「文学」として活きる作家性(のようなもの)への淡い期待を声高に訴えている。

【共通点】
(小説として意味のある)小説の構造を「作品」と「アルゴリズム」(by山形)あるいは「物語」と「世界観」」(by大塚)の分離、という切り口で還元主義的に分析した。
作家性というものと作品自体を切り離すことで、その作家の存在意義を問う、というアプローチである。モチーフこそ「バロウズ」と「村上龍」という違いはあるが・・・。
いずれにせよ、両者とも小説(文学)への愛憎入り乱れた感覚が、文学の未来(の存在意義)を見出そうとする力になっているように思う。

高橋源一郎が大塚の著書『物語の体操』の解説で、こんなことを書いている。
「ぼくは大塚英志が「文学」について書いたものを読みながらいつも痛切に思うことなのだけれど、自らを「文学方面」ではなく、その外にいる者であると断じる著者以上に、「文学」への愛情とこだわりを語り続ける者が、肝心の「文学方面」に見当たらないということだ。」(同書、P226)

そして、ここでも「文学方面」の外にいると断じている、翻訳・執筆を兼業とするサラリーマン(山形)が毒をはく。
「もともとぼくは、小説や詩には関心はあるけど、ブンガクなんてもんはどうでもいいのだ。だいたい文学ってなんだい。文学いますぐ逝ってよし。」(『たかがバロウズ本。』P004)

それにしても、優れた文学批評が「文学方面」(もちろん、作家だけではなく文芸評論家も含む)ではないところから生まれてくるのは、まさに「文学」が終わりつつあることの兆しなのだろう。
つまり、メタ・コンテンツ(コンテンツそのものよりも、そのコンテンツを語る言説)のほうが、はるかに面白いということだ。
<各種ポータルサイトのページ(コンテンツ)よりもGoogleの検索結果(メタ・コンテンツ)のほうが、はるかに面白い。>

◆ブンガクの果ての、約束の地。
◆メタ・コンテンツ(コモンズ)にみる「自由」と「コントロール」

そこから、何が生まれる(何を生む)のか?
が、このblogのテーマでもある。

<03/09/20 03:16>
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