大塚英志による本書は、様々なアイディアの宝庫となる実践書だ。
コンテンツ産業で生き延びなければならない日本国においては、一握りの一流作家ではなく大量の三流作家(マンガ、アニメ、ゲーム、小説、脚本など)の育成が不可欠(?)という大義名分のもとに、「文学」の「文学」たらしめているものを切り取り出そうとする構造主義的文学論。
プロップの「昔話の形態学」
グレマスの「行為者モデル」
蓮實重彦の「小説から遠く離れて」
瀬田貞二の「行きて帰りし物語」
などを巧みに援用しつつ、手塚治虫や村上龍の作品を素材に議論が進められる。
ちなみに「盗作」技術を積極的に身につけようと勧める一章で、レッシグの名も以下のように登場する。
「(「引用」という言葉は潔くないとして)ローレンス・レッシグという人がネット上での引用の自由を主張する用語として用いる「パブリック・ドメイン」なる概念もぼくにとっては似たようなものです。」(同書、P47)
まんが産業における「二次創作」の書き手たちについて言及した箇所では、以下のように述べている。
「まんがの技術はある特定の部分が後退したというよりは、まず第一にまんが家が「まんがという全体」を一人で創作し、かつ、管理することができなくなった」(同書、P124)
そしてこうした時代にあって、意図的に「物語」と「世界観」を分離し、なおかつ自らが二次創作(映画など)も手がけてしまう器用な作家の代表例として村上龍をあげている。
「世界観」を分離する、というのはコンテンツ産業において重要な手法であり、シリーズ化を容易にすると同時に組織的な創作活動も可能となる。
「ぼくは小説に限らずあらゆる表現で送り手(作者)と受け手(読者)の関係が変容する、両者の差異が下手をすると消滅さえすると考えます。」(同書、P213)
小説の方法(物語の構造と技術)を徹底的に読者に開くことによって、その解体した先にあるものこそ、「文学」と呼ばれるべき何か特別なものなのではないか?と、作者は「単行本あとがき」の中で書いている。
「文庫版あとがき」では「物語」について再度言及している。
「・・・「大きな物語」に抗するための「物語の技術」はといえば80年代の終わりとともにあっさりと崩壊した。そしてコミックやノベルズや映画や、あらゆる表現の中で「物語」の長い不在が続いた結果、人々の「物語」に対する耐性はひどく脆弱になったように思うのだ。」(同書、P221)
「物語」が文学やコンテンツ産業に与えるもの、そして文学から物語を引いたときに何が残るのか?という逆説的批評の視点が、この本の中で通奏低音となっている。
<03/09/18 06:13>
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