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本を書く/アニー・ディラード

THE WRITING LIFE by Annie Dillard

あなたは謙虚に、あらゆる方向に気を配りながら言葉を一つ一つ注意深く置いていく。それまでに書いたものが脆弱で、いい加減なものに見えてくる。過程に意味はない。跡を消すがいい。道そのものは作品ではない。あなたがたどってきた道には早や草が生え、鳥たちがくずを食べてしまっていればいいのだが。全部捨てればいい、振り返ってはいけない。(p.29)

なぜ人は、大きなスクリーンで動きまわる人間たちを見るのではなく、本を読むのか。それは本が文学だからだ。それはひそかなものだ。心細いものだ。だが、われわれ自身のものである。私の意見では、本が文学的であればあるほど、つまりより純粋に言葉化されていて、一文一文創り出されていて、より創造力に満ちていて、考え抜かれていて、深遠なものなら、人々は本を読むのだ。本を読む人々は、とどのつまり、文学(それが何であろうとも)好きな人々である。彼らは本にだけあるものが好きなのである。いや、彼らは本だけがもっているものを求める。もし彼らがその晩映画を見たければ、きっとそうするだろう。本を読むのが嫌いなら、きっと読まないだろう。本を読む人々はテレビのスイッチを入れるのが面倒なわけではないのである。(p.47)

だれが私に書くことを教えてくれるのか、とある読者が知りたがった。
紙(ページ)、紙(ページ)。その永遠の空白。時のいたずら書きを権利として、また勇気を必要なものとして認めながら、あなたはゆっくりとその永遠の空白をうずめていく。紙。 <中略> 可能性の純粋さに満ちた紙。命取りの紙。あなたはその紙にありったけの生きる力をもって集めた完全にはまだ及ばない秀逸な文章を刻み込むのだ。その紙があなたに書くことを教えてくれる。
他の言い方もできる。まき割り台をめがけて斧を振り下ろすのだ。まきをめがけてはだめだ。まきを通過し、まきの下の台をめがけるのだ。(p.74)

作家は文学を学ぶ。世の中を学ぶわけではない。もちろん、彼は世の中に住んでいる。そこから逃れることはできない。ハンバーグを買っても、飛行機に乗っても、その経験を読者と分かちあうことはしまい。読み物には細心の注意を払う。なぜならそれは彼が書くものだから。習得するものに細心の注意を払う。なぜならそれは彼の知識になるものだから。 <中略>
文学の本体には、限界とエッジがあり、その本体はある人々においては体外に、またある人々においては体内に存在する。そして作家が文学に本体の形成を許したとき初めて、それは文学を形成するものと思われる。(p.82-83)
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ハイパーテクスト

ジョージ・P・ランドウ
ハイパーテクスト―活字とコンピュータが出会うとき
HYPERTEXT The Convergence of Contemporary Critical Theory and Technology
by George P Landow

ハイパーテクストは、T.ネルソンの造語(60年代)
Theodor H.Nelson, Literary Machines

ヴァネヴァー・ブッシュとメメックス(1945)
Vannevar Bush "As We May Think"
「メメックスは個人の蔵書や記録や通信が保管できる装置であり、抜群のスピードと柔軟性で検索できるように機械化されている。これは各人の記憶の個人的な増補版である。」
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ウェブと活字の臨界点に立って

http://www.kyuryudo.co.jp/senya-detail/taidan.htm
特別対談 ウェブと活字の臨界点に立って
松岡正剛×福原義春


松岡  やはりウェブは「情報」なんですね。「文章」ではないんです。見る人も情報として読みますよね。書くときも、そこに針をつついたという印象はなく て、流したという感じになります。ウェブの文章では、僕のものは長いほうですが、それでも情報的なストリームという感じですね。それが縦組みになってく ると、「おっ、これは流れっぱなしだな」とか「ぶつ切れだな」とか、そういうことがものすごく立ち上がってきますね。ただ、そこを彫琢していくことが仕 事としていいかどうかは、時間や締め切りがありますのでなんとも言えませんが、本来の感じとしてはそういうものに向かえるようになりましたね

[中略]

福原
  携帯電話やパソコンが当たり前のものとなり、メールをコミュニケーションツールとしている人たちが小説を書くような時代になってきています。そうすると、ひとつの文章がとても短い。このような現象はいろいろなところで起きていると思います。

松岡  私もまだ充分につかんでいませんが、きっと、『千夜千冊』が出来上がって、改めてそれについて自分で味わうチャンスがあるときに見えてくると思い ます。最初に行長や句読点などについて申し上げましたが、もっと何か、電子のなんといいますか、平面的な、ピクセルでパッと動いていくような、サラサラッとした電子的な流れと、活字が組まれてページネーションを指で繰るというもの と、いろいろな知覚の変容まで、電子との差がありますね。
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「物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン」

大塚英志による本書は、様々なアイディアの宝庫となる実践書だ。
コンテンツ産業で生き延びなければならない日本国においては、一握りの一流作家ではなく大量の三流作家(マンガ、アニメ、ゲーム、小説、脚本など)の育成が不可欠(?)という大義名分のもとに、「文学」の「文学」たらしめているものを切り取り出そうとする構造主義的文学論。

プロップの「昔話の形態学」
グレマスの「行為者モデル」
蓮實重彦の「小説から遠く離れて」
瀬田貞二の「行きて帰りし物語」
などを巧みに援用しつつ、手塚治虫や村上龍の作品を素材に議論が進められる。

ちなみに「盗作」技術を積極的に身につけようと勧める一章で、レッシグの名も以下のように登場する。
「(「引用」という言葉は潔くないとして)ローレンス・レッシグという人がネット上での引用の自由を主張する用語として用いる「パブリック・ドメイン」なる概念もぼくにとっては似たようなものです。」(同書、P47)

まんが産業における「二次創作」の書き手たちについて言及した箇所では、以下のように述べている。
「まんがの技術はある特定の部分が後退したというよりは、まず第一にまんが家が「まんがという全体」を一人で創作し、かつ、管理することができなくなった」(同書、P124)
そしてこうした時代にあって、意図的に「物語」と「世界観」を分離し、なおかつ自らが二次創作(映画など)も手がけてしまう器用な作家の代表例として村上龍をあげている。
「世界観」を分離する、というのはコンテンツ産業において重要な手法であり、シリーズ化を容易にすると同時に組織的な創作活動も可能となる。

「ぼくは小説に限らずあらゆる表現で送り手(作者)と受け手(読者)の関係が変容する、両者の差異が下手をすると消滅さえすると考えます。」(同書、P213)

小説の方法(物語の構造と技術)を徹底的に読者に開くことによって、その解体した先にあるものこそ、「文学」と呼ばれるべき何か特別なものなのではないか?と、作者は「単行本あとがき」の中で書いている。

「文庫版あとがき」では「物語」について再度言及している。
「・・・「大きな物語」に抗するための「物語の技術」はといえば80年代の終わりとともにあっさりと崩壊した。そしてコミックやノベルズや映画や、あらゆる表現の中で「物語」の長い不在が続いた結果、人々の「物語」に対する耐性はひどく脆弱になったように思うのだ。」(同書、P221)

「物語」が文学やコンテンツ産業に与えるもの、そして文学から物語を引いたときに何が残るのか?という逆説的批評の視点が、この本の中で通奏低音となっている。

<03/09/18 06:13>
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大きな物語と小さな物語

「大きな物語と小さな物語」という言葉を最初に耳にしたのは、水戸芸術館の展覧会だった。と思ってサイトを確認したところ、「大きな日記/小さな物語」(水戸アニュアル'92)だった。
http://www.arttowermito.or.jp/art/history/index-j.html
人間の記憶は曖昧なものだ。

<03/09/30 01:45>
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「文学方面」外の還元主義者たち

さて、では山形浩生と大塚英志にみる相違点と共通点は何か?

【相違点】
これは小説(文学)のオモシロさ、存在意義をどう捉えるか?という違いである。
アルゴリズムを自動化することによって作家性が希薄になり、最終的にそれは誰の「作品」になるのか?という議論を展開することで、小説(文学)そのものが掻き消えていく(もちろん、その代替物は存在するのだが・・・)と語る山形。
いっぽう、大塚は、ソフト(コンテンツ)産業が肥大化していく中で「ブルーカラーの物語作者」(他人の作った世界観をベースに二次創作できる人)を効率よく養成するために「物語の構造」を整理し、なおかつその先に「文学」として活きる作家性(のようなもの)への淡い期待を声高に訴えている。

【共通点】
(小説として意味のある)小説の構造を「作品」と「アルゴリズム」(by山形)あるいは「物語」と「世界観」」(by大塚)の分離、という切り口で還元主義的に分析した。
作家性というものと作品自体を切り離すことで、その作家の存在意義を問う、というアプローチである。モチーフこそ「バロウズ」と「村上龍」という違いはあるが・・・。
いずれにせよ、両者とも小説(文学)への愛憎入り乱れた感覚が、文学の未来(の存在意義)を見出そうとする力になっているように思う。

高橋源一郎が大塚の著書『物語の体操』の解説で、こんなことを書いている。
「ぼくは大塚英志が「文学」について書いたものを読みながらいつも痛切に思うことなのだけれど、自らを「文学方面」ではなく、その外にいる者であると断じる著者以上に、「文学」への愛情とこだわりを語り続ける者が、肝心の「文学方面」に見当たらないということだ。」(同書、P226)

そして、ここでも「文学方面」の外にいると断じている、翻訳・執筆を兼業とするサラリーマン(山形)が毒をはく。
「もともとぼくは、小説や詩には関心はあるけど、ブンガクなんてもんはどうでもいいのだ。だいたい文学ってなんだい。文学いますぐ逝ってよし。」(『たかがバロウズ本。』P004)

それにしても、優れた文学批評が「文学方面」(もちろん、作家だけではなく文芸評論家も含む)ではないところから生まれてくるのは、まさに「文学」が終わりつつあることの兆しなのだろう。
つまり、メタ・コンテンツ(コンテンツそのものよりも、そのコンテンツを語る言説)のほうが、はるかに面白いということだ。
<各種ポータルサイトのページ(コンテンツ)よりもGoogleの検索結果(メタ・コンテンツ)のほうが、はるかに面白い。>

◆ブンガクの果ての、約束の地。
◆メタ・コンテンツ(コモンズ)にみる「自由」と「コントロール」

そこから、何が生まれる(何を生む)のか?
が、このblogのテーマでもある。

<03/09/20 03:16>
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「たかがバロウズ本。」

山形浩生といえば、まずはバロウズ。その彼が、やっと「たぶんバロウズについての本が書けるのは、これが最初で最後になるだろう。」という気合のもとにまとめたバロウズに関する諸々。

バロウズについて書きながら、彼はその先に文学の未来(?)を予見する断片を披露する。

「ぼくは、いずれ小説は自動化されるだろうと思っている。小説だけじゃない。ほぼあらゆるアートやエンターテイメント、コンピュータのアルゴリズムで表現されるようになり、そしてそのアルゴリズムをもとに「作者」というものなしに量産されるようになると思っている。ウィリアム・バロウズの本には、その可能性のかけらが見えている。それをどう実現するかというアルゴリズムが示されている。つまりウィリアム・バロウズは、作品と、それを作るアルゴリズムの分離の先鞭をつけた。」(同書、P031)

これは、バロウズのカットアップ手法をさしているのだが、そのカットアップに関する分析が秀逸。

「ウィリアム・バロウズの小説もそうだ。そこでは、ことばでしかできないこと、小説以外の形式では不可能なことが追求されている。それは何か?バロウズの小説を評価するのであれば、それを考えなきゃいけない。」(同書、P151)

そして「第8章 小説にしかできないこと」の中で、彼はカットアップのミクロ経済的なモデル化と分析を行う。(同書、P233-245)
その詳細はここでは割愛するが、さすが某シンクタンク勤めで、クルーグマンの経済書も訳しているだけあって、定量化の論法には説得力がある。

「バロウズを享受できる読者とは:
●おもしろいフレーズに過大な価値を置く人
●時間コスト(つまりは所得水準)がきわめて低い暇人
●文を読む速度が異様に速い人物」。(同書、P243)

バロウズのカットアップ小説を読んだことがある人ならば、「そんなの当たり前じゃないか?」と言いたくなるような結論が、このモデルから導かれる。
つまり、その小説を読む価値はコストに見合うかどうか?という話だ。
この場合のコストとは本の値段のことではなく、主に本を読むのに費やされる時間コストを指している。

しかし、このモデルを一般化して提起する問題はさらに奥深い。さらっと書かれているけど、この一節を読むだけでも、この本の価値があるといえる。
「最適な読みの概念構築」「人生の段階における急激な嗜好の変化の説明」「文化レベルとメディア」「情報の価値という問題」・・・なかなか刺激的だ。

そして、もうひとつ。本書の縦糸となっている「バロウズにとっての自由」。

「自由とコントロールのバランスは、それがどれだけの価値を生み出すか、ということによって評価されなきゃいけない。
で、バロウズはいったい自由を使って何をしようとしたんだろうか?価値を生み出すために具体的にかれは何をしただろうか?何も。」(本書、P329)

実は、この文章の前にレッシグへの言及がある。

「フリーなものとコントロールされているものとは相互に依存しあうことで、お互いの価値を高めあう。これはローレンス・レッシグが、現時点での最新刊『コモンズ』で論じている通り。」(本書、P329)

このblogで、山形と大塚とレッシグの3人の本をネタにあげたのは、そこに"コモンズ"があると思ったからだ。
まずは、次のエントリーで、山形と大塚について・・・。

<引用部分は全て『たかがバロウズ本。』より (c)2003 山形浩生>

<03/09/20 00:31>
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「コモンズ」を読んで

この本の原題は、"The Future of Ideas by Lawrence Lessig"。前作「インターネットの合法・違法・プライバシー CODE」で有名になったローレンス・レッシグ教授の快作だ。
邦題「コモンズ」のサブタイトルに「ネット上の所有権強化は技術革新を殺す」とある通り、インターネット自体が、これまでイノベーション・コモンズとして発展してきたことをまず理解しなければらなない。

「インターネットは、コントロールされた物理層の上に生まれた。TCP/IPによって構築されたコード層は、それでもフリーだった。こうしたプロトコルはエンド・ツー・エンド原理を表現し、その原理がネットに結ばれるコンピュータによって作られた空間を、イノベーションと変化のために開放した。この開放空間は、コントロールされたプラットホームの上に築かれた貴重な自由だ。そしてその自由がイノベーション・コモンズを作り上げた。そのコモンズはほかのコモンズと同じく、コントロールされた空間の価値を高める。」(同書、P83)

ここでは、ネットではなくコモンズに力点を置きたい。
コントロールされた空間に置いて価値を発揮するコモンズ。しかし、そのコントロールが度を過ぎれば、コモンズの悲劇を生む。

ワールドワイドウェブの発明者ティム・バーナーズ=リーが述べたように:
「哲学的にいえば、もしウェブがユニバーサルなりソースとなるのであれば、それは無制限に育つことができなければならなかった。技術的には、もし何か中央集権化したコントロール地点を持っていたら、それはすぐにボトルネックになってウェブの成長を制約し、ウェブがスケールアップすることはないだろう。ウェブを「コントロールから外す」こと(「コントロールを効かなくすること」)が非常に重要だった。」(同書、P66)

こうしたレッシグのスタンスは、一方でクリエィティブ・コモンズ協会の設立(2001)といった活動も生む。
「人が自由に使って工夫するための基盤」それがコモンズだ。

そして、「自由/コモンズ/コントロール(規制)」といった概念装置をここから援用することによって「物語」の構造について議論していこう、というのが、このblogの目的である。

<03/09/18 05:12>
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物語の構造

とりあえず、3冊の本がネタになりそう。

物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン


たかがバロウズ本。

コモンズ

<03/09/17 22:09>
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